昭和46年04月09日 朝の御理解



 御理解 第79節
 「商売をするなら、買い場、売り場というて、もとをしこむ所と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れるから、やはりその方が得じゃ。体はちびるものでないから働くがよい。」

 これは繁昌するという、商売繁昌だけのことでない。すべての仕事の上に当てはまることだと思うですね。こういう精神で商売させて頂く。そういう精神で事業させてもろうたら、間違いなしに必ず信用はついてくるし、必ず人は集まってくるであろうし、確かに商売が大繁昌になると思うですね。ところが中々人間はそれが出来ません。人が十銭儲かるところは十一銭も十二銭も儲かりたい。出来るだけ働かんで楽をしながら儲けたい。そういう考え方をしております。
 世の中には商売人なら商売人で、中々商売の上手な人があります。それはもう口先三寸でから、むごう相手を丸め込んでから、利口者であっちは利口者じゃから商売繁盛すると。愛嬌が良いからよく売れるとか、またあっちは中々要領が良い、中々要領が良いから店が繁盛する。ところがそれではね本当の繁昌にはならない訳です、商売が上手というだけでは。難しいことだけれども、真心で商売させてもらう。真心というのは人が喜ぶというより、神様が喜んで下さる商売。
 神様が喜んで下さるような商売をする。これなら段々おかげを頂いて行くだけでなくて、段々人の信用も付きゃあ、神様の御信用も付いて、おかげが頂けるようになって参ります。私共大体小さい時から商売人になりたい、商売で立とうと思っておりましたから、まあ色々と商売の勉強も致しましたし、確かに商売は上手じゃったと思うのです。そういう商売人なら沢山ありますね。成程ちょっと儲け出すようですけどね、ですけど本当の儲け出しは出来ませんね。私が一番分かります。
 私信心させて頂いとりますから、売るでも買うでもお願いをして商売をしておるけど、神様が喜んで頂くような商売をしとらん。その当時考えてみると、神様に喜んで頂くような商売をしている。愛嬌一つで売れた。商売人はやはり愛嬌が良からなからんといけん。そのためには、それこそ作った愛嬌でも、まあ研究してから、そのこと一つのお話でも、勉強して、そして結局は売らん哉のために愛嬌であり、売らん哉のためのやはり上手に言うと言う事であった。
 人よりも余計売る、確かに私とお話しをしよると、「あなたと話しよると、もういらんものまで買うてしまう」といったようなことを言われとりました。駈引きが上手じゃった訳ですね。ですから商売は繁盛するはずなのですけれども、成程、人よりも倍も、場合には三倍も売っておったんですけれども、儲かってはいない。愛嬌一つで二つ売ると、ちょっと人の心をつかむコツを覚えとる。いわゆる購買心理ですね。
 ですからついつい私と話しよると、騙されてしもうてから、一つ買や良いのを二つ買わされ、まあいらぬものまで買うてしまう様な事になる。それで自分は商売が上手だなと思う。それでいて一つも残っていない、儲かっていない。本当に信心させて頂きながら、教えを行ずることはやはり難しいことだとこう思います。「十銭のものは八銭で売れ」と仰るのに、十一銭、十二銭で売っておる。北京時代でも、私が売ったものが、お酒一本が大体五円くらいでしたね。
 けれどもやはり同じ値段じゃやはりいけん。五円五十銭で売った。そして酒がずらっと並べてある。自分方の酒は一番上に並べて、高い品質が良いわけでもない。けれども妙なもので、どれもこれも五円なら、五円五十銭のなら良かろう気がする。やはり売れる。それは私がこちらで地酒をやっていた時でもそうでした。「今度は大坪さんこの酒は良うなかったが」ちゅうて。「今度は少し念を入れとりますから」ちゅうてから、「なら取り替えましょう」そしてやはり同じ物を持って行っとる。
 「今度は本当念を入れとりますけんで」ちゅうと「大坪さん今度の酒は良かった」ちゅうてから。同じ酒です。まあそう言う様な事をですね、平気でやって行けれるのが商売人のように思うとった。それとか、またちょっと人を喜ばせるそういうコツを覚える。まあいつもキャラメルとかグリコをポケットに入れておく。お酒配達に行くと子供がおる。子供から先に取り付けると言う様な根、そのような手ばかり使った。まああっちは利口者ちゅうごたる風でね。
 よそから買うよりか、あそこから買うちゅうごたる風でね、買うてもらった。そういう風にしておかげをもろうてしたけれども、一つも儲かってはいないと言う事。私は思うのに、やはり神様に喜んで頂くような商売をしとらじゃったと思う。結局はスッテンテンになってしまうような結果になった。そこんとこはやはり商売させて頂くなら、よそが十銭で売るなら八銭で売る精神、「売り場、買い場を大事にせよ」と仰るように、元を仕込むところまたは売り先、仕入れるところとお得意さんを大事にする。
 そしてよそよりも安くする。そしてその上、「体はちびれるのもじゃないから働け」と仰るようにです、こまめに働かせてもらう。それなら商売繁盛するはずだ。繁盛するはずだけれども、なかなかそこんところが出来ん。言うなら人間の弱いところじゃないかと思いますね。少しでも余計に儲かろうとする。いわゆる商売に真心がない、やはり神様に喜んで頂くような心がない。成程真心のように、いかにも親切のように言いよるけれども、それは売らん哉のための親切であり、しておる訳ですから。
 そこでですね私は、昨日午後から二度目のお参りを日田の麻生さんがなさっとられます。ここで人と会われる事になって、弟さんが福岡の方で漢方医をなさってある。漢方のお医者さんをなさってある。それで兄弟で話をしとられるのを一緒にお茶頂きながら、聞かせて頂いて、素晴らしいなあ、素晴らしいなあと思って聞かせて頂いた。弟さんは麻生さんに言っておられることは、「あなたのような生き方じゃいかんですばい。時々はあなた帳面ども、見よんなさるですか」「ああ見る暇がなかもんじゃけん」て。
 まあ言うならば従業員任せ。お店の方は店員任せと。言うなら大雑把なことである。そう言う事では、売り掛けがどれだけあるやら、どれだけ集金して来よるやらわからん。麻生さんの話横で聞かせて頂きながら、麻生さんそこの生き方がね、それはまあ性格でしょうね。性格ですけども、それが信心でなされるようになったら素晴らしいだろうと思いましたね。帳面ひとつ見る訳じゃなし、いわゆる大きいこれはそうですね、性格的に非常に几帳面な人がある。又はろくそうな人がある。
 ですから几帳面だからおかげを頂く、ろくそうな人はおかげ頂かんと言う事はない。これは信心をさせて頂いて、きちっと私は「ろくそうな人はおかげ頂かれん」ち私は言います。もう私はお供えさせて頂くのに、本当に尺を持って行って計るくらいに、八足からお三宝でも、お三宝からお三宝の間、尺で計ったように置かにゃ好かん。それを曲がっておっても平気、歪んでおっても平気と言う様な事ではおかげにならん。御神前が汚れておろうが、散らかっておろうが、そんなことは頓着がない。
 でもそんな性格の人があるんですよ。ですが信心を抜きにすれば、どっちがどっちではないのですけど、信心させて頂いてキチッとせなければおかげにならんと聞かせて頂いて、キチッとすることになると、そこからおかげを頂く。いわゆる先日の御理解のように、夜が明けたら元日と思い、日が暮れたら大晦日と思うてと言う事なのである。そう言う様な御理解頂いて、本当に元日のような心で、大晦日のような心で、一つことがなされて参りますとね、そこから不思議に喜びが湧いてくる。
 その喜びがおかげをキャッチする。おかげを受ける受け物になる訳です。だから昨日麻生さん達ご兄弟の話を聞かせて頂きよってです、麻生さんの性格が、信心であのようになされたらです、素晴らしいだろうと、大きなおかげ受けられるだろうとこう思います。だから頂いておるお互いの性格そのものにです、信心が入らなければならない。信心が入るところから、何をするにも実意丁寧になり、真心にならして頂くのです。
 私共の過去の自分の生き方、商売というものを思うて見ると、まあ言うならば商売は上手と言われながらも、実際は残っていなかったと。儲けていなかったと。成程お願いだけはさせて頂いて、おかげは受けさせて頂いとるけども、結局は残っていなかった。それがどう言う事かというと、一つも信心にはなっていなかったと言う事です。これは私の一番の、信心させて頂きながら、金光様の信心を頂いておると言いながらです、信心にはなっていなかったと言う事。
 そして自分の利口でやって行こうとした。自分の力量でやって行こうとしておる。それでは本当の意味において商売繁昌する訳がなかった。よし繁昌するに致しましても、繁昌したに致しましても、神様の御信用のもとに繁昌したのでないから、それは結果が良くないことも事実でありましょう。で商売を繁昌するその中身がね、やはり真心でなけりゃいけん。親切でなけりゃいけん。いわゆる信心でなけりゃ駄目。そこでですね、例えば神様が教えて下さるように、「目前は損のようでも」と仰る。
 損のような商売でもです、なら麻生さんのような生き方と言った様な事の中にです、そこにはっきり神様の働きを信じ、または感じながらなさせて頂くなら、出来ないことが出来るような気が致します。そういう一つの手というかね、そういう生き方を知らなかった。昨夜の御理解に、春が陽気なリズムにのってやってくると、春はリズムにのってやってくる。私どもの日々の生活が、そういう一つの調子にのって生活が出来る。一つのリズムにのって生活が出来る。
 一つのこれはリズムですから、それを聞いておっても、それを味わっておってもです、実に気分の良いものであります。例えば楽器などは、調子が狂うておる楽器をいかにかき鳴らしたところで、喧しいばかり。きちっと調子が合うた、調子にのって楽器が奏でられる時に、それは人の心に快いリズムが響いて行く。どんなに最近少年少女会の人達がバンドを作ってやっとりますから、初めの間はちょっと喧しいことじゃあるという訳でありました。ドンドン、ドンドンいわせるだけでありました。
 ところが最近は段々リズムが出てきた。一つの曲目を皆で合奏しながらやって行く。その喧しい音に代わりはないけれども、それが一つのリズムになっておるから、喧しいとは思わん。聞いておって、ああ良いなとこう思うのであります。ですから私どもがね、例えば商売をさしてもろうても、その商売が調子にのって行く生き方をです、私は体得する、または発見して行く生き方を体得したら素晴らしかろうと。リズムにのった生き方。これは商売だけじゃない全てです。
 そこでどういうリズムかというとですね、私共の場合は、どういう場合であっても、そこから出る音色、いわゆる有難いなあという音色、勿体ないなあという音色、相済まんことですという音色、そういう音色が出てくる程しの日々でありたい。例えばね商売をする、商売は儲かるばっかりとは決まっとらん。損することだってある。引っ掛かることもある。例えば損をしたにしてもです、そこからおとなえを頂いてと言う様な心が出てくればね、それは良い音色が出たわけです。
 ただお願いをして思うようになるところだけが有難い、儲かるところだけが有難い、そこは誰だって有難いんですけど、少し難しいことになったり、損をしたりするところになってくる時、どうしてと言う様な事になってくる。例えば三味線なら三味線を弾きますと、もう一番良い音色の出る、ちゃっとこうツボというのがありましてね、調子の合うた三味線をツボを押さえて行けば良い音色が出るのです。一つの歌なら歌がそこから出てくる訳です。または歌を歌う、それに伴奏することが出来るのである。
 それが所々は合いよるけどですね、例えば難しいところは全然音色が放れておるというような、押さえどころが悪い、間違っておると言う様な所に、言わば嫌な音色である。ですから、それに合わせて歌っている歌の方も狂ってくるのである。だから私ども、日々の生き方の中に、その音色を放さんようにして行く稽古、天地の奏でて下さる伴奏によっての生き方、これは私の日々の生き方、私の生き方を見ておって下されば、大体皆さん分かると思うのですけれども。
 そこにはいつも神様を感じておる。良きにつけ、悪しきにつけ神様を感じておる。ですから、例えば自分には分の悪いことであっても、それはおかげと言えれる訳です。ここには取り分け成り行きを大事にする、その成り行きを大事にすると言う事が、それを大切にして行くと言う事がです、成程成程という良いリズムを呼ぶことになり、リズムにのることになり、そこから私はおかげが受けられると。いわゆる神様の一分一厘の間違いのなさに恐れ入ってしまうという日々がある。
 そこでお互いの信心にも性格がありますが、お互い頂いている性格そのものが、それは赤であっても白であっても、それなりのものですから良いですけれども、教えに従って行く、例えば教祖様が「十銭の物を八銭で売れ」と仰せられるから八銭で売るのだ。そういう生き方を習わせて、そこから一つの調子にのって、リズムにのってというか、その調子を狂わぬように、はずさんようにするために、私どもの心はいつも神様に向けられておる。いわゆる親切、真心真心を外すと音色が変わってくるというくらいにです。
 私共の信心生活が出来るようになって参りますと、そこから神様の信用が頂いてくるようになる。ただ安く売ると、よそよりも安売りをすると、成程それは売れましょう、それこそ愛嬌が良いからと言えば、それこそいらぬ物まで売り付けることが出来ましょう。けれどもそれで繁盛した分では、それは本当なおかげになっていない。それは私の過去の自分の商売の致し方でこれはもう実証しとる。商売上手で儲かっただけでは、それは儲かっておるようでも、それは本当の儲かりではない。
 人に喜んで頂く商売ですけど、その根本になるところは、神様の喜んで頂く商売をさせて頂かなきゃならん。神様に喜んで頂く商売をさして頂こう。ならば人も必ず喜ぶに違いない。人が人間が相手ではない、神が相手であるというような生き方こそが、私は商売さして頂く者の商売の在り方、また商売人と言わんですけども、生き方在り方になってくるとこう思うのです。神様に喜んで頂く生き方になっておるかどうか、それを確かめながらの生き方になったら、必ず良いリズムが出てくる。
 間違っておったら、狂うておることがすぐ分かる。あれは音色がおかしいと調子を整えることが出来る。調子なんかはどうでも良い、ジャンジャラ、ジャンジャラ売れとれば良い、ジャンジャラ、ジャンジャラ弾いとれば良い。これでは本当に良い音色も生まれません。本当のリズムにのっての生き方もありません。どんなに商売が暇であっても、どんなに繁盛しておっても、その中から有難い勿体ない、相済みませんと言った様な答えの出てくるような生き方を見に付けて行く。
 まずリズムの調子を合わせて、調子が合うたら「カン」どころというか、ツボの押さえどころというものを、会得して行く。そこから教えという一つの楽譜を見ながら、弾かせて頂くところに良い曲、良い音色というものは生まれて来る。これは特に三味線では申しますね、調子が大体合うまでが一稽古いります。信心もだから本気でです、そういう調子が出るところまで、信心の稽古させて頂きますと、商売なり仕事がです。
 実に楽しい愉快なもの、しかもそれを見る人をして、聞く人をして信心生活ちゃ素晴らしいと言う様なものが聞いてもらえ、または見てもらうことが出来るようなおかげが頂けれる。ただ調子が狂うておってもどうでもかまわん。ただお願いをしておかげを頂く。その場その場のおかげというものを頂けりゃ有難いけれども、反対なことになったらもう有難くないと言う様な信心ではつまらんですね。
   どうぞ。